脳と聴覚


物理現象と心理現象

実際に私たちが聞いている「音」や「音楽」は、耳に届いた音、つまり「鼓膜や体を震わせた空気の振動」のみから成り立っているのではない。耳に届いた音が「脳で再編成」されて作り出された「イメージ」を「音」だと感じて聴いている。

例えば、私たちは「夢」を見るが、目をしっかり閉じている(視覚は何も捉えていない)にも関わらず「映像を認識」する。これこそが、私たちの「脳」の働きを端的に示している。つまり、私たちが感じている「現実」とは「すべて脳が作り出したもの」なのだ。

別に大発見だとか声を荒げて言うほどのことはない、昔から良く知られていることだ。ただ、複雑すぎて説明が難しいせいか、オーディオを語るときには「脳の働きが無頓着に扱われすぎる」と感じることが多い。

 しかし、「私たちが聞いている音」は「空気の振動」という「物理現象」と「脳の働き」という「心理現象」の双方が関連して「作り出されている」ことを決して忘れてはいけない。

学習と音質の関連性

もう少し話を掘り下げる。私たちが「音を聞く様」は、「CDプレーヤーから音が出る様」によく似ている。CDプレーヤーは、「ピックアップが捉えたデータ」を直接「音」として出力しているのではない。「データ」は一旦「メモリ」に読み込まれ、「CPU」が「欠落したデータ」を「補完修正演算」し「音」として「出力」している。決して「リアルタイム」に音が出ているのではない。

 「データ」を「鼓膜に届く音」・「ピックアップ」を「耳」・「CPU」を「脳」・「出力される音」を「聞こえる音」に置き換えれば「人間の聴覚の仕組み」が分かるはずだ。「鼓膜に届く音」が「同一」でも「演算プロセス(脳の個性)」の違いによって「聞こえる音」は確実に異なるのだ。

この「脳の個性」を抜きにして「音の聞こえ」について語ることは出来ない。特に、「音のクリエーター=音決めする人」は、自分が聞いている音に「自分の個性=その瞬間の脳の個性」が反映されていることを忘れてはならない。

私たちが見ている「物体(映像)」も網膜に写った光が「電気信号に変換」され、視神経を経て脳に伝わり「脳の中で電気信号を元に再編成されたイメージとして実態化した物体」にすぎないと説明したが、その実例を挙げる。 

生まれたての赤ん坊は「視力が弱く」、大きく動く物にしか興味を示さないが、それは「ハードウェアとしての眼球」の精度が低いのではなく「情報を処理する脳が未発達」だからにすぎない。成長とともに「脳は視神経からの情報を素早く処理」出来るようになり、「ハードウェアとしての眼球の精度は向上せず」とも赤ん坊の視力はぐんぐん向上する。  

聴覚も「正しいトレーニング」により「正しい記憶」を集積することで「聞き分け能力(耳の良さ)」はどんどん向上する。トレーニングを積んだ人とそうでない人は、全く同じ音を聞いても「聞こえ方」が全く変わってしまう。

その「正しいトレーニング法」を世界で最初に「科学的な論文」として発表したのは、フランスの言語学者「アルフレッド・トマティス」だろうと思う。トマティスの著書「人間は皆、語学の天才だ」を読めば、「聴覚による聞き分け」について多くの大切なことが分かるはずだ。

最近、ネットで盛んに宣伝されている「一週間で英語が聞き取れるようになる!?」という英会話トレーニングは、トマティスが発明した「トマティスメソッド」に基づいているのは、ほぼ間違いないと私には感じられる。

もし、そうだとしたら、トマティスの名前を出さないのは「無断借用」であり言語道断だ。確かに「それ」は、明確に法律で保護された権利ではないし、そうだとしても「保護期間」は終了しているだろう。しかし「道義的な責任」はどうなのだ? 

この業界の悪質業者も、同じように「無断借用(パクリ)」を繰り返し、恥知らずにもそれで飯を食っている。それは、私の考えているオーディオの本質とは完全に矛盾する。情けないことだ。

パターン認識

このように、コンピューターよりも「遙かに速度の低い」我々の「脳」は、時にコンピューターを遙かに超える能力を発揮するほど「素早く」情報を分析・処理するが、それは、「脳の学習能力がずば抜けて高い」からに他ならない。

この「脳」の「優れた学習能力(記憶)」を抜きにして「音」を語ることは出来ない。では、「脳」の学習能力とはいったいどのようなものなのだろう。その基本は、「パターン認識」である。「パターン認識」とは、「情報」を「記憶」と比較することで「正解」を素早く見いだす方法だ。

「へのへのもへ」を楕円で囲むと「人間の顔」に見える。しかし、コンピューターには、それは「へ」・「の」・「へ」・「の」・「も」・「へ」という「ひらがな」が楕円の中にバラバラに並んでいるとしか「認識」されないし、実際、図の認識としては「パソコンの認識」が正しいのは言うまでもない。

パソコンには「ひらがな」にしか見えない「「へのへのもへ」が「人間が見ると」情報として全く似ても似つかない「人間の顔」に見えてしまうのは「脳が記憶している人間の顔の特徴」と「へのへのもへ」の輪郭が「似ている」からだ。

 つまり、「脳」は「視神経から送られてきた情報(電気信号)」と「記憶されている人間の顔の情報(電気信号)」を「照らし合わせた」時、その「パターンに共通性がある」と判断し「へのへのもへ」を「人の顔」に見せてしまうのだ。

細かく言えば、「脳」は「へ=眉毛」・「の=目」・「も=鼻」・「へ=口」にそれぞれのパターンが「一致する」と判断(間違った判断だが)しているわけだ。

画像を逆さまにすると「顔」は「顔」に見えるが、「へのへのもへ」は、もう「顔」には見えない。それは「へのへのもへ」の「輪郭」が「人間の顔の輪郭」と「違ってしまった」からである。

 「似たもの」を探して情報を「瞬時」に「特定」・「補完」して、人間の限られたハードウェアの能力を最高の効率で発揮させるのが「パターン認識(ソフトウェアとしての脳の働き)」のすばらしさである。

錯覚

「パターン認識」は、私たちの「知覚」にとって非常に重要な役割を果たし、無くてはならない「便利な働き」であるが、逆に、その「曖昧さ「や「思いこみ」から様々な「錯覚」を引き起こす原因ともなってしまう「もろ刃の剣」的な存在でもある。

 私たちは「写真」を見て立体的な奥行きを感じるが、写真はあくまでも「平面」で、そこに「立体的な起伏」は存在しない。「遠い物は小さく見える」という「記憶されたパターン」に導かれた「無意識の思いこみ」が「奥行き」という「擬似的な立体感」を与えているにすぎない。それが「錯覚」だ。「へのへのもへ」が「人の顔」に見えたのも「錯覚」だ。 

「錯覚」は何も「視覚」だけに起きるのではなく、五感全ての感覚で起こり得るし、「他の感覚の情報」によって「錯覚」が引き起こされることもある。なぜなら、五感で得られた情報は、脳の中ではすべて「神経を伝わる電気信号」にすぎないからだ。

難しい話になるが、脳は「五感から届いた電気信号」を「明確に個別化して識別し処理」しているのではない。

例えば「両眼」の「神経」は、脳の中で「一度重ね合わされるように近づいてから脳に届いて」いる。それは「神経の距離が近づくこと」で「左右の神経から漏れている電気信号がかすかに重なる」ことが重要だからだ。

一つの「物体」を左右の「眼球」で捉え、それが神経の「距離が近い部分」に「電気信号」として届き、その電気信号が「かすかに重なり合う」と「電気信号のほんの少しのずれ」が「脳内部で干渉」を起こし「脳内部に電気信号の干渉縞」を生じさせる。

「脳」は、非常に似通った左右の眼球の信号(同じ物を見ているため左右の眼球の信号はほぼ同一)を「別個に演算」する愚行を犯さず「干渉」という、見事な「技」を駆使して「瞬時」に、しかも「非常に高精度」に「信号の分析」を行っているのだ。 

まだ、完全に解明されたわけではなく、私の勝手な考えにすぎないが、「五感」への様々な「刺激」によってもたらされた「神経の電気信号」を「脳内部に構築された神経ネットワーク」を通じて「干渉」させることにより、あるいは「記憶」という「抵抗(スイッチ)」でその信号の伝達を「調整」することで得られた「脳内部での電気信号の干渉縞」が、我々の「イメージ(知覚)」なのかもしれない。

「脳」この「生体コンピューター」の働きは今世紀さらに深く解明されであろうが、それがどうあれその「神秘的なすばらしさ」は筆舌に尽くしがたい。オーディオを通じてその「神秘」に触れるものまた一興である。

2004年2月7日 逸品館・代表取締役 清原 裕介


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