オーディオの本質


人間は夢見る葦

人間は他の動物とは違い「考える」力を持ち、「考えること」が大好きな生き物だ。特にオーディオのような「インドア」の趣味を持つ人は例外なく「考える」ことが大好きだ。

例えば、異性に恋をしたとしよう。その恋が成就するかどうかは、どう転んでも「相手の気持ち次第」なのだが、恋をしたら誰もが「相手の気持ちを想像し」一日中「一喜一憂」を続けてしまう。こんな状態をオーディオに置き換えるとすれば「機器やアクセサリーの購入、あるいはセッティングの変更」などによって「自分の音が良くなる様」を想像している段階に当てはまるだろう。恋愛とオーディオでは「焦がれる対象」こそ異なるが、心は同様に英語で言う「フィーバー(熱に浮かされている)」状態に陥っている。

実は、この「フィーバー状態」が人間には一番楽しく、幸せな時間なのだ。なぜなら、「想像の世界では、何もかもが自分の思い通りになる」のだし、動物の中でずば抜けて「想像力」が豊かな人間が「見る夢」が「最も幸せな夢」に違いないからだ。

しかし、楽しくとも所詮「夢は夢」。何れ醒めるし、夢見る期間が長引けば長引くほど「覚めた」時の後味は苦い。夢を見るのはかまわない。しかし、夢(音)におぼれ現実(音楽)を見失っては何もならない。

 

結果はあなただけのものだが・・・

もしあなたの「オーディオの目的」が「当てもなく夢を見続けること=際限なく音を変えるのを楽しむこと」ならば、この先を読む必要はない。しかし、あなたの「オーディオの目的」が「より良い音楽を聴くこと」なら、これから書くことをよく読んで忘れないでいて欲しい。 

音を良くするには、「失敗を恐れず繰り返し実験する」以外に近道はない。くどくど頭の中だけで考えを巡らしても、当たり前だが音は変わらないし、聞いたことすらない装置について「論議」を交わすのも大した足しにはならない。「実験(試聴)」し、あなたが感じたことだけがオーディオのすべてなのだ。

誤解を恐れず言うなら「音」はちっとも変わらなくてもかまわない。あなたが「良くなった」と思えればそれで良い。他人がどうこう言う問題ではなく「音が良くなったかどうか」の「結果」はあなただけのものなのだ。

 「結果」に対して「評価」を下せるのが「あなただけ」なら、「結果」に対して「責任」をとるのも「あなただけ」だ。全てが「自己完結するオーディオの世界」には、他者の存在する必要性がなく、また人に迷惑を掛けない限り「オーディオの世界であなたは完全に自由」な存在でいられるだろう。

会話のルール

その世界に「制約」を加えたくなければ「他人」をその世界に加えるべきではない。自分の世界から一歩外に出たなら「自分の主張は曲げたくない」かといって「他人にとやかく言われたくない」そんな「わがまま」は許されない。ましてや「他人」は、必ずしも常に「あなたに同意する」とは限らない。

それでもあえて「自己満足の生ぬるい夢」を捨て、自分の世界を「外側にも広げよう」とするなら、他者に対する「配慮」を怠ってはならない。なぜなら、自分の世界を一歩踏み出せば、そこは「他人のフィールドであり公共の場所」となるのだから。

 人は誰でも心に「不可侵の領域」を持つ。その「領域」こそが、その人の本質に触れる特別にプライベートな領域だから、人は無意識に「安全な領域と危険な領域の間」に「ライン」を引いている。その「ライン」を超えないことが会話のルールであり「礼儀」だが「オーディオ談義」に熱中すると知らずにこの「ライン」を超えてしまうことがある。

熱き想いを語るのは大いに結構。ただし、仕事や人生とは違い「制約」の少ない「趣味」だからこそ、逆に「強い自制」が求められることをお忘れなく。他人の心に土足で踏み込めば、結果は火を見るより明らかだ。

オーディオ(趣味)の本質

オーディオを語ることは、時として人生を語るに等しい重さを持つ。手塩にかけたオーディオ装置の音を「一音聞いただけ」で、尽き果てるほど言葉を交わす以上に「その人の本質が見える」ことすらある。

オーディオほど「心の本質」に深く触れる趣味は他にはないからだ。 「好きな音楽」を紹介するのは「好きな著書」を紹介するに等しい。生い立ちから、現在の考えに至るまでの全てを見通せるだけの「情報」がそこには秘められている。快活な人は明快な音を、憂鬱な人は陰鬱な音を無意識に選んで聞くからだ。音の好き嫌いを知られたときには、もしかすると、本人すら気づかない「深層心理」まで、相手に悟られてしまっているかもしれない。 

「オーディオ」は、決して「軽薄」でも「安易」でもなく、ただの機械いじりとは訳が違う。

互いの意見に真摯に耳を傾け、まっすぐ議論を交わせば、「信頼」が生まれる。「趣味」の世界で鎬を削り合えるライバルには「尊敬」の念を抱くだろう。

時を経て「信頼」と「尊敬」が「友情」に昇華すれば、それは一生を通じる「絆」になる。「音」を媒介とした精神の鍛錬。音を通じた「友」との出会い。それが「オーディオ」という「趣味の本質」だろうと私は思う。

オーディオは科学である

本題に入る。繰り返すが、私が考えるオーディオ(趣味)の最終目的は、「自己啓発」と「友との出会い」である。機械いじりは、その手段にしかすぎず、それは目的ではない。

オーディオ機器という道具を通じ「音」あるいは「音楽」を語り合うことで、「仲間と交流」を計るのがこの趣味の目的である。もちろん「語り合う」のは「音楽」だけでなくても良いが、音楽をなおざりにして「機械技術」だけを語っても意味はないと考えるし、あまりにオカルトめいた「突拍子もない話題」ばかりになるのもどうかと思う。

そんな話題は決して長続きはしない。三流週刊誌をにぎわす「ゴシップ記事」と大差ない。「音楽」と比べて、遙かに内容が浅はかだからだ。 多くの人との交流を目的とするならば「会話の内容にはある程度の制限」を設ける方が良いと思う。

 私はその制限のよりどころを「科学」に求めようと考える。もちろん「音」・「音楽」・「オーディオ」の全てが「科学」で解き明かせるとは思っていない。しかし、「定量化」・「データ化」出来ないからといって、「適当なでっち上げ」あるいは「「思いこみ」を「論拠」に人を煙に巻いてはいけない。

「話」には「確固たる根拠」が必要である。「論議」は、「説明可能な根拠」・「確認可能な根拠」に基づいてのみ繰り広げられるのが妥当だと考える。 そういう意味での「科学」だから、何も「全てをデータにしなさい」・「科学的な説明以外は受け付けない」と言いたいわけではない。

「あやふやな根拠」や「独りよがりな感覚」だけからの「思いこみ」を吹聴するのは「ご遠慮ください」と言いたいだけだ。ただでさえ「理屈が幅を利かす」世界だから、「理屈」と「屁理屈」を明確に区分しないと、オーディオは瞬く間に「不健康」に陥ってしまい、「健康的な交流」が実現しなくなる。

オーディオを科学する

現在の「オーディオ理論」や「音響技術」は「不完全」である。その「理論」には「矛盾」が多く存在する。最も大きな矛盾は、「測定データ」と「聴感」が「一致しない」にもかかわらず、あくまでも「測定器」あるいは「測定できるデータ」のみに基づいて「理論がでっち上げられている」としか見えないことだ。

 先に述べたように「科学理論」には「明確な根拠」が必要である。「根拠」そのものが「不確定」にもかかわらず「理論」を展開してはならない。「確実性のない根拠」の上に成立するのは「推論」であって「理論」ではない。「理論」と「推論」は、明確に区別しなければならない。オーディオを科学的に語るとは、「推論」を「理論」と決めつけるような「えせ科学」を排除することでもある。

また、このような「えせ科学」を「オーディオメーカー」が威風堂々と宣伝文句に用いるから、「オカルトメーカー」がこの世界に蔓延る結果となる。

「技術者」なら「技術者」らしく、「数字」には「正直」であるべきだし、「感性」を重視するというなら、安易に「感性」を「数値化」してはならない。両者の間には「明確な仕切を設ける」べきだ。決して、混同してはいけない。話がややこしくなるだけだ。

目を開こう

この世界には「目に見えるもの」と「目に見えないもの」がある。そして「科学で立証できるもの」と「科学で説明できないもの」がある。「音」という「物理現象」については、そのほとんど全てを「科学で解明可能」だと考えている。対して「音楽」については、「未だ科学では解き明かせない謎」を多く秘めていると思う。

しかし、誤解しないで欲しいのは「科学で解明できない」といって「科学で証明できない存在があると決めつけることは出来ない」ということだ。 私も「感覚」は鋭い方だから「目に見えない力(説明できない力の影響)」をまるっきり感じないわけではない。そして、その存在を否定することもないが、かといって肯定することもない。なぜなら「自分が感じる」からといって「それがそこにある」とは、絶対に断定できるものではないからだ。

ましてや「確固たる根拠を持って立証できない存在や現象」あるいは「根拠のない効力」を吹聴し、金儲けのネタにするなど論外だと思う。「代価」は「確実な効力(利益)」に対して支払われるべきで、「不確実な効力=夢」に対しては「多大な代価」を求めるべきではないというのが私の考えだ。

  目をしっかり開けて物事を見て欲しい。オーディオ業界のみならず、この世界は「欺瞞」と「不実」に満ちている。有名な占い師が言う「あなたには今年不幸が訪れます」と。そして、続ける。「○○の代価を支払えばその不幸は訪れなくなります。私がそうしてあげますから」と。そんな馬鹿な話はない。最初から「人を不幸(不安)にするような話をしなければよい」ただそれだけのことだ。

口先で「不幸」を唱え、「代価」でそれを「なしにする」そんな低レベルな詐欺に引っかかってはいけない。例え、その占い師が「TV」や「雑誌」で有名であっても気にする必要は全くない。それは、彼らの「飯の種」であって、あなたの「幸せ」とはまるで無関係なのだから。オーディオ業界の商法も似たような所がある。十分注意して欲しい。

2004年2月7日 逸品館・代表取締役 清原 裕介


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